今回はちょっとだけ戸田奈津子さんの話をさせてもらいます。ネットで「戸田奈津子」と検索すると、「戸田奈津子 誤訳」や「戸田奈津子 クソ翻訳」など批判的なキーワードが出てくるうえ、彼女を批判するような掲示板や記事を多く目にしたからです。それらの記事の内容を読んでも勘違いしてる人が多いなあ、という印象を受けたので、一言言わせてもらいます。
そもそも字幕とは?
だいたいネット上に出回っている彼女の批判記事は、あの映画のあのフレーズがああ間違っている。本当ならこうなるはだという類のものです。あるいはそこそこ合ってるけど、こんな変な表現を使っているとかなんとか。
まず、戸田奈津子さん本人が言っている言葉でこれらの多くの批判に対してのレスポンスにもなる名言があります。
「映画字幕は翻訳ではない」
そうなのです。ほとんどの人が勘違いしているのがこの点なのです。映画字幕を読む、あるいはTVのバラエティ番組などで外国人のインタビューなどの字幕キャプションを読むときに、まずはここを理解していないと、大変な目に遭います。
なんせそれらは「翻訳ではない」からです。スクリーンで喋っている人と、キャプションの文字で書いてあることが合致している、というのは実は多くの人の思い込みなのです。
TVのバラエティー番組というのはそもそも作り手の意図で内容が決まるので、その意図に沿った出演者のコメントをチョイスして編集し、そこだけを放送します。
これが外国人となると、断然コメントの部分の編集が甘くなり、都合のいいキャプションを出してごまかしているのをよく目にします。もちろん全部が全部そうではないです。
でも結構な頻度で字幕と音声は全く関係なかったりします。しかしバラエティ番組ということもあり、いちいちそれを間違っているなんて指摘する人は日本にはほとんどいないのでしょう。そもそも外国語の時点で理解できているクレーマーの数はぐっと減るわけだから。
映画の字幕は意味ではなく文脈が大事
では映画の場合だとどうなのでしょうか。映画の字幕はバラエティ番組ほどいい加減ではありませんが、おおよそのストーリーラインと会話の方向性さえ脱線しなければ、あとはOKといった風潮があります。
なんだそんないい加減なのかと言われると、それはもうむしろいい加減にするしかない、といったほうが正しいかもしれません。
なぜなら映画には英語一セリフに対する日本語字幕の文字数と表示時間の制限があるからです。ガチガチの直訳日本語にしたら文章が長すぎて視聴者は読みきれないし、また早いテンポの会話なら次のセリフとも字幕がかぶってしまいます。
だから「私たちは今すぐここを出ないといけません」となる文章をただ「行くぞ!」とか、「早くしろ!」とか字幕表示させたりするのは苦渋の選択なのです。
その一方で文字数や表示時間の制限とは関係なく、戸田奈津子の字幕には明らかな間違いがある、それはもうストーリーラインだ、ニュアンスだを超えている、という指摘もあります。
それに対しては「間違いはもちろんあるさ」としかいいようがないです。ただ、それは戸田奈津子さんに限ったことではなく、ミスを探そうと思えば他の翻訳家にも必ずあります。
例えば「アナと雪の女王」の主題歌の「Let It Go」の部分は「ありのままで、、」と訳されていますが、あれを誤訳だという人があまりいないのはなぜなんでしょうか。
それはメロディーにぴったりはまっているからで、それが耳に焼き付いてしまったからではないでしょうか。今からあれを「すみません、訂正します。
Let It Goなので忠実に訳すと、『放っておいて』になりますので、これからはそれで行きます」とか言い出したら、ファンは嫌がるはずです。要するに元の文章より、日本人にどれだけピンと来るかが大切なのです。このように映画一本の中には様々な分野、状況のセリフが登場し、その全てにあなたが望んでいるような訳を期待するのには無理があるのです。
だからこそ映画は字幕なしで直接理解するのが理想なのです。戸田奈津子の字幕は誤訳だらけだ、なんて言っている人はそもそもなぜ字幕の力を借りているのでしょうか。その道の第一人者を批判できるほどの語学力があるのなら、なおさら字幕なしで見ろよ、と言いたいです。